マキシムはあっけなくつかまった。
「あいつ、自分の元いたドムスに隠れていたのよー」
情報通のフィリピン犬がおれにそう教えた。「中に入ろうとして、セキュリティが反応したね。すぐつかまった。バカだね。バカ」
彼は鼻にしわをよせた。
「逃げる気ナイ。よほど、ここ嫌いよ。わたしたち軽蔑してる」
マキシムの傲慢無礼は知れ渡っている。犬たちは彼の愚かな行動をあざわらい、どんな罰が与えられるかと口さがなく噂した。
おれはその中をひとりおろおろ歩いた。
(あのバカ。あのバカ――)
あの気位の高い狼が、今ごろ罰に泣いている。
逃亡の罰はむごいものだ。手足を切られるかもしれない。切られなくても、次に会った時には、もう以前の彼ではないだろう。痩せた、神経症の犬の変わってしまっているだろう。
(ああ、なんで――)
わがままにもほどがある。こんな軽率なことをする理由がどこにあったのだろうか。
「ま、これであいつ、中庭に来れなくなったよ」
せいせいする、とフィリピン犬は鼻息をついた。
問題をおこした犬は昼休み時間、中庭に出られない。
(そうだ。中庭に来れないのだから、リンチは免れるな)
せめてもの救いはそれぐらいだった。地下で痛い目に遭っているのだから、どっちがマシともいえないが、やはりアクトーレスの罰のほうがまだ安全だ。
(――ああ! でも、そうすると、おれがなぐさめてやることもできんじゃないか!)
おれはマキシムの身を思って日がな落ち着かなかった。思い余って、担当アクトーレスのジョニーに聞くと、
「おまえには関係ないだろう」
ジョニーの返事は冷たかった。
「なに考えてる。ヒロ。おまえにはご主人がいる。かわいがってくださってるんだ。ほかの犬のことなんか考えるな」
「いや、ただ、気の毒じゃないか」
「ヒロ」
ジョニーはきびしく言った。
「よそ見している場合か。おまえ、調教権をとったからおわりじゃないんだぞ。所有権をとってもらえないと、ここからは出られないんだぞ。このまま飼われ続けて、年とってから手放されてみろ。その時には本当にどうにもならんぞ」
そうなのだ。
おれはまだ虎口を脱したわけではない。主人に所有権をとる決意をさせないと、いよいよのっぴきならない事態に陥ってしまう。
マキシムのことは心配だが、おれは身を入れて主人とデートしなければならなかった。
主人が円形劇場のマチネに連れて行ってくれる。
おれはからだをすみずみまで洗い、コロンを振った。
このコロンには催淫性がある。去年のクリスマス、ジョニーが自腹で買ってくれたものだ。
ジョニーに手伝ってもらい、おれはくだんの真珠の衣装をつけた。
彼はおれの髪にまたコロンを振りかけ、
「芝居がはじまったら、ご主人のひざに頭をもたせろ。体温で香りがたつ」
と教えた。
相手が勃っても劇場でしゃぶるな、とも言った。じらして、ドムス・アウレアまで引っ張れ、という。
「とにかく、おまえといる時間が心地よい、という印象を植え付けるんだ。ベッドでことが終わってもガアガア寝るんじゃないぞ。ご主人の後始末をして――」
「ありがとう、おばあちゃん」
おれはジョニーをさえぎった。「いつもやってるからわかるよ」
ジョニーも苦笑いした。
「出来の悪いのが売れそうだと思うと、落ち着かないんだよ」
ジョニーはいいやつだ。アクトーレスのくせに、本気でおれを助けたがっている。おれは彼に報いたい。
主人は一階の回廊にいた。
彼はおれの姿を見て、はっとベンチから立ち上がった。目をほそめて、うなづく。
「立ってみせてくれるか」
おれは立ち上がった。小粒の真珠がからだを美術品のように飾り立てている。おれはおどけてくるりと回って見せ、ニッと笑った。
「これはかわいらしい。人魚姫だ」
近くにいた客たちがそばに寄ってきた。
「いい衣装ですな。どこで買ったんです。とてもセクシーだ」
「この子にもよく似合っていますよ。肌がきれいだ。東洋の子は真珠が似合うね」
「どこでこの子を。こんな子がいましたかな」
主人は顔を赤くしていた。地下にいたんですよ、あそこには掘り出し物があります、とへどもど言った。
聞かれていないのに、この真珠はいくらいくらで、と説明する。
おれは笑いそうになった。ケチな主人のうれしげな顔が可笑しい。滑稽だが、もっと喜ばせてやりたくなった。
「この部分は責め具になっているんですか」
客がしげしげと股の飾りを見る。主人は得意になって、ジョニーにおれを抱え上げるよう命じた。
ジョニーがおれの足をつかもうとした時、耳にヒイと風の抜けるような声がかすめた。
かぼそい声だった。だが、魂の底から噴き上がるような絶叫だった。
中庭だ。
中庭の彫像の台座に、白いからだがつながれていた。
(マキシム!)
おれはぎょっと立ちすくんだ。
マキシムは両腕を台座につながれ、弓のようにからだをそらせて叫んでいた。その下肢を大柄な黒人が犯していた。
ガルデルだ。なぜ?
「口枷がはずれたんですな」
おれの傍にいた客が言った。「主人はいないようだ。なぜ、わざわざ中庭でやるんでしょうな」
「犬たちにくれてやろうというんでしょう」
マキシムのそばに、電気棒を持ったアクトーレスがいた。ガルデルが彼を犯すのを、冷然と見下ろしていた。
マキシムは白目を剥いて叫んでいる。何語かわからない。声もろくに出ない。そののけぞった咽喉が異様に白かった。
首輪がなかった。
主人は彼を庇護していなかった。
「見るな」
ジョニーが手でおれの目をふさいだ。
客たちがわらっていた。
あれを食べたいものですな。ええ、プラチナ犬ですからね。かわいそうに、ごらんなさい。『首輪、首輪』って泣いてますよ。
――首輪。
その瞬間、おれのなかで何かがはじけた。
おれはぞっとして、ジョニーの手をはがした。
「止まれ!」
ジョニーが腰を抱え、鋭く叱る。「おとなしくしろ。おまえには関係ない」
手足が勝手に動いていた。腰から引き戻されそうになるのを、足をかけてジョニーの足を刈り、崩れたところを投げ飛ばしていた。
ジョニーは回廊に叩きつけられた。
おれは中庭へ飛び出していた。
「うおおッ」
ガルデルの腰に組みつき、引き剥がす。だれかが呼んでいる。
前からアクトーレスが棒を突き出した。おれはその胸に飛び込み、襟をつかみざま回転して、背負投で投げ飛ばした。アクトーレスの長い足が宙を飛ぶ。
すぐにガルデルの黒い腕が伸びた。がっぷり組み合い、押さえこまれそうになる。ガルデルの白目がぎらりと光る。プロの目だ。圧倒的な力に押され、かかとがすべりかけた。
(潰される!)
おれは背中から倒れざま、相手の腹を蹴上げて、投げた。
「動くな」
ウエリテス兵が銃口を向けていた。「犬ども、動くな」
中庭にいる全員が、阿呆のように突っ立っておれを見ていた。
回廊には主人が棒立ちになっていた。風に吹かれる案山子のように、遠くに見えた。
真珠があたりに飛び散っている。おれの衣装はボロボロだった。
「くびわ……」
そばで湿った声がした。白い大きな犬がヒイヒイ細い声で泣いていた。青い目は正気をうしないかけ、恐怖にすくんでいた。
おれは首のうしろに手をやり、留め金をはずした。首輪をはずし、マキシムの白い咽喉につけてやった。
マキシムの青い目がおれを見た。蒼ざめた頬に真珠のような涙がパラパラと落ちた。
「ばか」
おれは哀れな犬に言った。
「ご主人に会いたいなら、なんでいい子にしないんだ。クリスマスが終わったら、帰ってきてくれるんだろうが。おまえみたいに恵まれている犬ばっかりじゃないんだぞ」
もっと説教してやりたかった。だが、口がどうにも重くなってダメだった。
腰になにか刺さっている。細いカプセルのついた針だ。頭も重くなり、おれは芝草の上に倒れ伏した。
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